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前回の夕木春央作品『方舟』読書会に引き続き開催された課題本読書会です。


『ゴリオ爺さん』 著者:オノレ・ド・バルザック 出版社:光文社

出世の野心を抱いてパリで法学を学ぶ貧乏貴族の子弟ラスティニャックは、場末の下宿屋に身を寄せながら、親戚の伝を辿り、なんとか社交界に潜り込む。そこで目にした令夫人は、実は下宿のみすぼらしいゴリオ爺さんの娘だというのだが…。

引用元:「BOOK」データベースより

今回は『ゴリオ爺さん』読書会で交わされた魅力的な対話を、あたかも体験したかのように読者に伝えることを目的としています。内容は、話題やキャラクターについて整理することなく、実際の時間軸に沿って展開しています。

内容についてのネタバレが含まれているので、ご注意下さい。

——————–以下はネタバレを含みます——————–

【参加者の感想】

はじめから”ゴリオ爺さん”のラストが語られました。

最初の感想は、物語のクライマックスや結末に関するものでした。
特に、作中のメインキャラクター「ゴリオ爺さん」についてです。

「初めて”ゴリオ爺さん”を読んだのはずっと昔で、その時は彼の運命に涙が止まりませんでした。彼の死が非常に心を打ち、深く悲しく感じました。しかし、時を経て再びその物語を読み返した際には、私の感想は変わっていました。再読後は、ゴリオ爺さんの運命は彼自身の選択や行動の結果であると感じるようになりました」

小説や物語には、人生の異なる時期に読むと、まったく違う風に感じられることがよくあります。『ゴリオ爺さん』もこのパターンに例外ではありません。親としての愛と犠牲があります。このテーマ性は、親になった読者には特別な響きを持つものかもしれません。

ゴリオ爺さんは娘の気持ちを察していた……。

ゴリオ爺さんは、作中において、彼の娘たちとの関係が金銭を中心としたものであることを痛感していました。彼の娘たちは、経済的な利益を追求するために彼との関係を利用していたのです。しかし、ゴリオ爺さんはその事実を知りつつも、娘たちへの愛情が深く、何度も彼女たちの要求に応えるためにお金を工面し続けました。

この背景には、ゴリオ爺さんが長年にわたって娘たちに対して施してきた甘やかす教育が影響していると考えられます。彼は娘たちに対して、常に愛情を注ぎ、欲しいものは何でも与えてきました。その結果、娘たちは自分の欲望を優先し、父親であるゴリオ爺さんの愛情を利用するようになったのです。

ゴリオ爺さんの娘たちに対する無償の愛に心を打たれる一方で、彼が娘たちに対して行ってきた甘やかす教育の影響を感じ取ることができます。その結果として、娘たちの自己中心的な行動が生まれ、ゴリオ爺さん自身がその代償を支払うこととなったのです。

ボーセアン夫人の善意……??

物語の中でボーセアン夫人は、社交界の扉をラスティニャックに開かせるキーパーソンとして登場します。

ボーセアン夫人は、若く野心的なラスティニャックに対して、パリの上流社会の入り口を開く役割を果たします。彼女は彼を豪華なパーティーや社交界に招待し、彼に多くのコネクションや情報を提供しました。彼女のこれらの行動は純粋な善意だけからではなく、彼女自身の利益や目的を追求するためでもあったのではと話題にあがりました。

ボーセアン夫人の背後には、次のような動機や理由が考えられます。

権力と情報のコントロール 上流社会において、情報や人間関係は権力を意味します。ラスティニャックを自分の陣営に取り込むことで、彼女は自らの権力基盤を強化しようとしていたのでは?

ラスティニャックの利用  若く、情熱的で野心的なラスティニャックは、彼女にとって利用価値のある存在でした。彼の能力や人脈を通じて、彼女自身の地位や利益を増やすことができたのでは?

社交界のゲーム  パリの上流社会は、しばしば人間関係や策略のゲームとして描写されます。ボーセアン夫人はこのゲームの中で、自らの立場を保持・強化するために、ラスティニャックを駒として使っていたのでは?

これらの理由から、ボーセアン夫人のラスティニャックに対する行動や態度は、彼女自身の利益や野心を追求するためのものであり、純粋な善意だけではなかったと推察されました。

魅力的な脱獄囚、ヴォートラン

ヴォートランは、確かに魅力的なキャラクターであり、そのアナーキーな部分や自立心がその魅力です。ヴォートランはこの作品における主要なキャラクターの一人でした。

アナーキーな魅力

ヴォートランは、既存の社会的価値観や体系に縛られることなく、自らのルールや価値観を持っています。彼は社会の仮面の下に隠れている偽善や欺瞞を容赦なく暴くことで、読者に真実を突きつけます。

彼のこのアナーキーな側面は、従順に社会のルールに従う多くのキャラクターとは一線を画し、鮮烈な印象を与えます。彼は反乱者であり、その姿勢は社会の矛盾や不条理を浮き彫りにする鏡のような役割を果たしています。

自立した人間としての魅力

ヴォートランは、物語の中で独自の道を切り開き、自らの信念や価値観に基づいて行動するキャラクターとして描かれています。彼は他人の意見や期待に流されることなく、自らの意志で選択や決断を下します。

彼は他人の助けを借りることなく、自らの力で生き抜く姿勢を持っています。この自立心は、多くのキャラクターが社会的地位や富を追求する中で、彼だけが真の自由を追求しているかのように感じさせます。

ヴォートランのこれらの魅力は、バルザックが『ゴリオ爺さん』を通じて示したかった人間の本質や社会の真実を象徴しています。

ヴォートランの人気が高かったように感じました。ほかの作品にもヴォートランが登場するようなので、そちらも気になりました。

理想的な父親像??

さて、本題に迫ってまいりました。『ゴリオ爺さん』におけるゴリオ爺さんのキャラクターは、父性が強調されていますが、それが「父なる神」や「永遠の父性」に相当するかというと、少々複雑な問題です。ゴリオ爺さんは、娘たちへの深い愛情と献身によって、それを体現しているかのようです。しかし、その献身が娘たちによって利用され、最終的には彼自身の破滅を招きました。

無償の愛と献身

ゴリオ爺さんは娘たちに対する愛が非常に深く、その愛情は一種の無償の愛ともいえるでしょう。この点で、彼は「父なる神」のような無償の愛を持っているのでは……。

限界と欠点

彼の愛情は盲目性も含んでおり、娘たちが彼を利用することにつながっています。また、娘たちへの甘やかしもその性格に影響を与え、破滅に繋がっています。この点で、彼は「永遠の父性」の理想像とは少し距離があるのではないでしょうか。

複雑な父性の象徴

ゴリオ爺さんは、父性に対する多面的なキャラクターです。彼は一方で無償の愛と献身を示しつつ、その愛が如何に「人間的」であり、同時に欠点や限界も示しています。

ゴリオ爺さんは「父なる神」や「永遠の父性」といった理想像を完全に体現しているわけではありませんが、その極端な愛情と献身によって、父性に対する印象が残ります。

ゴリオ爺さんは、小麦・製麺業者

ゴリオ爺さんが小麦の転売で財を築き、製麺業者としての職を持っています。この背景が、宗教的なシンボルやメタファーとしての解釈も話題にあがりました。

キリスト教文化における小麦やパンのシンボルは非常に重要です。キリスト教の観点から小麦やパンのイメージです。

パンの奇跡

新約聖書には、キリストが少量のパンを群衆に食事を分け与えた奇跡のエピソード。神の恵みと無限の供給。

小麦の死と再生

小麦の種は土に埋められ、「死ぬ」ことで新しい生命、新しい小麦を生み出します。これはキリストの死と復活を象徴しているともいわれています。

ゴリオ爺さんが小麦を中心としたビジネスで成功を収めたことは、彼の人生や彼を取り巻く社会の状況を理解する上でのキーとなる要素のひとつです。小麦というモチーフを用いることで、バルザックは読者にキリスト教のイメージやメタファーを連想させたのかもしないという予想も飛び交いました。

ただし、ゴリオ爺さんとキリストを直接的に結びつけるのは安直かもしれません。が、小麦を中心とするビジネスを通じて、ゴリオ爺さんのキャラクターや物語の背景が深化することは確かです。

成長のストーリー

『ゴリオ爺さん』におけるヴォートランとラスティニャックの関係は非常にユニークであり、物語の核心部分です。ヴォートランのラスティニャックに対する助言や説教は、19世紀初頭のパリの社会の冷徹な現実を浮き彫りにしています。

ヴォートランはラスティニャックに、純粋に才能や努力だけで成功するのは難しく、社交界の中で利害関係をうまく使って自分の地位や名誉を築くべきだというようなことを教えます。ヴォートラン自身の人生経験はパリの社会の裏側をも知り尽くしている人物として描かれているため、彼の助言は非常に重みがあります。

一方、ラスティニャックは、若く、純粋な情熱や理想を持ってパリにやってきました。都市の社会や現実と向き合う中で、彼の価値観や人生観は大きく変わっていきます。ヴォートランの助言は、ラスティニャックが都会の生活や社交界の中でどのような選択をするのか、どのような人間関係を築くのかということに深く影響を与えます。

ヴォートランのラスティニャックに対する説教や助言は、ラスティニャックのキャラクターの成長や変容のキーとなるシーンであり、師弟関係のようでもあり、物語全体のテーマやメッセージをより深く理解するための重要な要素です。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』

ある参加者が、トマ・ピケティの『21世紀の資本』を持ってきてくれました。
この書では経済学の視点から21世紀の資本主義とその不平等について解析していますが、文学的な観点についての言及も非常に興味深いものとなっています。

特に、バルザックの『ゴリオ爺さん』はピケティによって度々引用されています。

『ゴリオ爺さん』における社会的上昇と資本蓄積に関する視点を示しています。結婚と資本に関する選択は、19世紀の資本主義社会における経済的選択の一例としてピケティによって強調されています。この選択は、資本の蓄積や継承というテーマを明らかにしています。

さらに、ピケティは資本の収益率が経済成長率を超えると不平等が拡大すると主張し、バルザックの作品を通じて、これが実際の社会や個人の選択にどのように影響していたのかを指摘しています。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』は、バルザックの『ゴリオ爺さん』をはじめとする文学作品を駆使しながら、経済の構造や社会の不平等についての洞察をしています。

これはとても興味深くて、ピケティの『21世紀の資本』も読みたくなりました。


『21世紀の資本』 著者:トマ・ピケティ 出版社: みすず書房

資本収益率が産出と所得の成長率を上回るとき、資本主義は自動的に、恣意的で持続不可能な格差を生み出す。本書の唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ。

引用元:「BOOK」データベースより

フランスの社交界はある種キャバクラ??

「フランスの社交界はある種キャバクラのようなイメージ」という意見がありました。
19世紀のフランス社交界の表面的な華やかさと、その裏に隠された虚しさや欺瞞を暗示するものがあります。キャバクラは、表面的には楽しさや魅力があるものの、その背後には様々な人間関係の複雑さや矛盾が隠れている場所として捉えられています。

この比喩は、バルザックが描写した19世紀のフランス社交界の二面性を象徴するものとして非常に適切だと感じました。

キャラクターに感情移入するとしたら?

ウージェーヌの実家の人やシルヴィー、クリストフは、作中の煌びやかな社交界からある程度距離を持っているキャラクターです。特にウージェーヌの実家は、彼がパリの社交界とは異なる、よりシンプルで純粋な価値観を持つ地域から来ました。
一方、シルヴィーとクリストフは、ペンションの使用人として作品中で数多くの人間模様を見てきたでしょうが、彼ら自身はその社交界の一部ではありません。

社交界の見栄や煌びやかさは、外側から見れば魅力的に感じられるかもしれませんが、その中に身を置くと様々な人間関係の網の目やプレッシャーに巻き込まれる可能性が高いです。

ボーセアン夫人の教育

社交界と現代のキャバクラやホストクラブとの比較が続きました。特にボーセアン夫人とラスティニャックとの関係性を考察することで、この比較がさらに深まりました。

まず、19世紀のフランス社交界は、地位や名誉、権力を追い求める人々で溢れていました。彼らは華麗なサロンや宴会を開き、相互に影響力を持つ関係を築いていました。このような背景の中で、若きラスティニャックはパリの社交界に足を踏み入れ、ボーセアン夫人との関係を深めることとなります。

ボーセアン夫人は、社交界の熟練者であり、彼女はラスティニャックに社交界での成功の秘訣やルールを教えていくことになります。この関係性は、現代のホストクラブにおけるホスト教育との類似性が見られます。ホストクラブでは、経験豊富な先輩ホストが新人ホストに業界のルールや客との接し方、売上を上げるためのテクニックなどを伝授することが一般的です。

ボーセアン夫人がラスティニャックに教えるのは、純粋に友情からというよりは、彼女自身の利益を追求するための一環ともいえるでしょう。しかし、その過程でラスティニャックは社交界での成功のためのスキルや知識を身につけていきます。このような教育関係や利害関係は、ホストクラブの世界でもよく見られるものです。

バルザックが描いた19世紀の社交界と現代のエンターテインメント業界との間には、時代や背景が異なるとはいえ、人間関係や利害関係における普遍的なテーマが存在することが感じられます。『ゴリオ爺さん』は、そうした人間の欲望や野心、そしてそれに伴う人間関係の複雑さが巧みに描かれています。

パーティ 会場

ラスティニャックとラスコーリニコフ

ロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』との類似性が話題になりました。両作品は、19世紀の大都市(パリとサンクトペテルブルク)における若き男性の成長と摩擦を中心に描かれています。

ラスティニャックとラスコーリニコフは、どちらも都市における野心的な青年であり、自身の価値観や道徳を模索する過程でさまざまな試練に直面します。ラスコーリニコフは、自らが行った犯罪とそれに続く罪悪感に苦しむ中で、ソーニャの愛を通じて回心します。彼女はラスコーリニコフの救済の象徴として描かれています。

一方、ラスティニャックはパリの社交界の虚飾と腐敗に触れ、自らの価値観や道徳を再評価する過程を経ます。ゴリオ爺さんの献身的な愛情と彼の悲劇的な結末は、ラスティニャックにとって確かに影響力のある出来事でした。ゴリオ爺さんの純粋で無償の愛は、社交界の偽善や欲望に翻弄されるラスティニャックの心に深い印象を残します。

しかし、ラスティニャックの変容はラスコーリニコフのそれとは異なります。ラスティニャックは最終的に社交界の虚飾を受け入れ、自らもその一部となっていく様子が描かれています。ゴリオ爺さんの愛情は彼にとっての救済の瞬間ではあるかもしれませんが、それは彼の社交界における生き方を根本的に変えるものではありません。

両作品は若き男性の摩擦と成長を描いていますが、その結末やキャラクターの変容は異なるものとなっています。それぞれの作品が提供する人間の洞察や道徳的な問いは、読者にとって非常に価値のあるものでしょう。

共通点に気づいた箇所

『ゴリオ爺さん』におけるラスティニャックとビアンションの会話は、当時のフランス社会の価値観や人間の欲望、野心についての洞察を示しています。なかでも”キリスト教精髄”についての言及や選民主義的な考えが垣間見え、ここに『罪と罰』のラスコーリニコフとその友人ラズミーヒンを思い出しました。

【まとめ】

盛り上がりの冷めないまま「ゴリオ爺さん」読書会は終了しました。2時間に及ぶ対話の渦中、多くの意見や解釈が交差し、新しい視点が生まれていました。それぞれの参加者が持ってきた独自の読解や感じたこと、さらにはバルザックの他の作品との関連性など、一冊の小説から広がる無数の話題に触れることができました。

実際、ここに書ききれないほどの豊富な議論や発見があったのですが、きりがないので、このへんにしておきます。

「ゴリオ爺さん」の読書会がこれほど盛り上がったので、他の「人間喜劇」作品にも触れてみることを熱望するようになりました。特に注目したいのは、メディアやジャーナリズムの闇を鋭く描いた作品であり、バルザックの中でも最高傑作との呼び声の高い『幻滅』です。

この作品は、19世紀の新聞業界を背景に、野心や欲望、腐敗といったテーマを鮮烈に描写しています。さらに『ラブイユーズ』も、次回の読書会の候補として熱烈に推薦されました。これからの読書会も、まさに心躍るものとなることでしょう。

ということで、今後も課題本読書会を開催したいと思いますので、要望があれば是非ともご連絡ください。

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