村上春樹氏の新刊長編小説『街とその不確かな壁』読書会を開催しました / 2023年5月5日(金)課題本 RENS(大阪の箕面にある読書空間)
熟成された村上作品を読みたいあなたにおすすめの1冊
久しぶりの課題本なので、話題性のあるこの作品にしました。
村上春樹さんの新刊『街とその不確かな壁』は、幻の中編小説『街と、その不確かな壁』が元になっています。著者自身が失敗作と考えていたために単行本や全集には収録されませんでした。その『街と、その不確かな壁』を長編小説にリメイクしたものです。
RENSの読書会は文学評論会ではありませんので、好き勝手に感想を語り合いました。
読書会の内容については作品に対するネタバレが含まれていますので、ご注意下さい。
【あらすじ】
十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを。高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。
(引用元:版元ドットコム)より
——————–以下はネタバレを含みます——————–
【参加者の感想】
・悪の不在
村上春樹の長編小説には欠かせない”恐怖の象徴”、”純粋悪”が登場しなかった。『ねじまき鳥クロニクル』でいうところの「皮剥ぎボリス」や「綿谷昇」。『海辺のカフカ』での「ジョニー・ウォーカー」。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダー』の『やみくろ』……。
かれらの存在が物語に緊張感を与えて、よりスリリングなエンターテインメント性が高まるはずが、この作品には登場せず、落ち着いた、もっと言えば地味な印象があった。
・ストレート
上にも共通することですが、ストリーラインがストレートで二つの平行世界にしてもいつもの村上作品より俗っぽさがあった。
ただその俗っぽさが悪いというわけでもなかった。著者の長編小説の中でも異彩を放っている。登場人物たちの言葉遣いや行動に、どこか素朴でありながら力強さを感じさせるものがあった。
・自分の中に入ってこられる
壁の内側の世界はまさに読者の内側に入っていくような感覚だった。
自分の心を本当に見ることは怖い。が、自分自身の本質に気づき、より深い理解を得ることができる。そこには、悲しみや苦しみ、そして喜びや希望が混在している。
・氷山の一角
「河合隼雄さんが話していた内容を思い出しました」
無意識を海に例え、意識を海から突き出た氷山の一角のように表現している。また、この表現方法は「ユング心理学入門」でも用いられているもので、心の中の混沌とした領域を海に、コントロールできる領域を氷山の一角に例えているのを思い出した。
・英米文学を読んでいるような感覚
「最近ポール・オースターの『鍵のかかった部屋』を読みました」
『街とその不確かな壁』を読んでいると雰囲気がまるで似ているので、まさに今、英米文学を読んでいる! という気分になった。
実はこの『鍵のかかった部屋』はRENSの読書会で紹介したので、それを読んでくださったようです。ありがとうございました。
・性描写がほぼない
「お気づきのとおり今回性描写がほとんどありませんよね?」
村上作品と言えばドギツイ(淡々とした?)性描写が長編小説にはつきもの。この描写が嫌だからという理由で村上作品を読まない人もいるとか。今回も読み進めていくうえで、いつ出てくる? もうすぐ? と思いながらページをめくるがとうとうそのシーンはなかった。
拍子抜け、著者自身が抑えたのか? 書く必要性がなかったのか? 謎は謎のまま。
【読書会で盛り上がったところ】
・ネギ2本?
やっぱりこの話題になりました。読んだ人なら絶対にひっかかる2本のネギ。図書館の前館長である子易さんの妻が失踪したあとに残されたベッドに横たわるネギ2本。どういう意味があるのか?
「奥さんと子供?」
何十年もその意味を考え続けた子易さんでもついに解き明かせなかった超難問。
読者の私たちがわかるはずもありません。見事迷宮入りでした。
・ハッピーエンド? バッドエンド?
村上作品のラストは常に希望を持たせるような清々しい気持ちになれます。といことで今回の作品はどうだったのでしょうか?
5名中4名がハッピーエンドだと感じておられました。
1名はどちらでもない現状維持です。というのもいつもよりストーリーに起伏がなく、そのためラストスパートに勢いがついてないために強いカタルシス効果が得られなかったからです。
・家族が描かれている
「イエロー・サブマリンの少年の家庭環境がけっこう長めに描かれていることに驚きがあった」
村上作品の登場人物は基本的に1対1の関係性で物語が進行します。
母親の心配、父親のどうしていいのかわからない苛立ち。兄たちの調査。一見繋がっているようで、バラバラな『仮面家族』がこの令和の時代、妙にリアルな息遣いとして描写されています。
読者と同様に現実を生き抜いていくしかない彼ら家族のシーンが話題となりました。
・肩甲骨が軽い
小説の後半では、主人公が夏草の匂いのする中、川の上流に向かうシーンがあります。川を上流に進むにつれ、肉体が若返っていくという描写です。
「肩甲骨が軽くなったらいいなあ」
年をとると肉体が老朽化していくことを当然のことながら実感するため、日常生活で不便を感じることが多くなるということを考えて、うらやましく思った言葉です。
・独特な読み方 ロウソクの火が消える……。
イエロー・サブマリンの少年とロウソクの火が消えるまで対話できるシーンがあります。
これが、まるで怪談話のようで、ロウソクが消えるたびに「怖い怖い」ってなったそうです。
また、壁に囲まれた世界はまるで『進撃の巨人』「ウォールマリア!」
「独特な読み方ですみません」と申し訳そうにされていましたが、かなり面白かったです。
・『幽霊の死』は本当の死
前図書館長の子易さんは幽霊です。その彼が幽体としても完全に消え去るシーンでの寂しさは”完全なる別れ”を実感させられたと参加者全員が共感しました。
生きている人間が死んでも魂が残り、幽霊としてこの世にとどまることは想像できます。が、幽霊が消えると真の意味での”死”が訪れたことかもしれません。
・万博公園の地図?
『街とその不確かな壁』で描かれている壁の内側の街は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の小説にある「世界の終わり」パートの地図に酷似しています。
よくよく眺めていたら「これって万博記念公園に似てますよね? えっと、ここに太陽の塔があって……」たしかに形も似ています。
気になった方は確認してみてください。
・古井戸はスルー
村上作品に度々でてくる古井戸。実はこの『街とその不確かな壁』にも少し描かれています。
「絶対に井戸に入る」と思いながら読み進めていた人は多いのではないでしょうか?
しかし、今回は井戸に入りませんでした。けっこう気になっていたので残念です。
・えっ? 溜まりに行かなくていいの?
いよいよクライマックスです。勇気を出して希望に満ちた世界に飛び出すというラストのシーンです。
危険を顧みず、溜まりに行くのかと思いきや、ロウソクの火を消すだけ……。
「こんなんでいいの?」という話題で盛り上がりました。
【参加者の好きな村上春樹作品】
・『ノルウェイの森』『騎士団長殺し』『ダンス・ダンス・ダンス』『遠い太鼓』
・『海辺のカフカ』『ふしぎな図書館』
・『羊をめぐる冒険』『海辺のカフカ』
・『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』
・『ねじまき鳥クロニクル』『国境の南、太陽の西』『ダンス・ダンス・ダンス』
意外だったのですが村上作品のランキングでも上位にくる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』があがりませんでした。
【世界観を彩るアクセント(音楽・食べ物・文学……)】
村上作品といえば、その世界を彩るちょっとした食べ物や飲み物、そして象徴のように語られる文学作品や音楽、その他拾える範囲でピックアップしいます。
・飲食物
・ブラックコーヒー
・ブルーベリーマフィン
・サンドウィッチ、蕪のスープ
・小エビと香草のサラダ、イカとキノコのスパゲティ
・シャブリ
・シングルモルトのウイスキー
・マルゲリータ
・ビール
・ブルーベリーマフィン
今回の作品ではなんといってもブルベリー・マフィンが主役といっても過言ではないでしょう。
事前に用意をしておこうと思ったのですが、近くにブルーベリーマフィンが売っているお店がありませんでした。
「コストコに行かないとないんじゃなですか」と教えていただきました。
めったにブルーベリーマフィンを見かけることがないので、いつか食べてみたいです。
・家に呼んで料理を振る舞う主人公
コーヒーショップの店員に主人公が自宅に招待してイカとキノコのスパゲティを料理するシーンがあります。
「こんな男性に出会ったことがない!」という声。
「反対にこんなことをされたら逆に嫌だ!」という声も。
どちらがいいのでしょうか、人によるのでしょうけど、これも永遠のテーマです。
・音楽・他
『Just One of Those Things』 / コール・ポーター
『Yellow Submarine』『Help!』『A Hard Day’s Night』/ ビートルズ
『パリの4月』 / エロール・ガーナー
・モーツァルト
・サックス奏者 ポール・デモンズ
・ピアニスト デイヴ・ブルーベック
・ロシア5人組 アレクサンドル・ボロディン、ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソルグスキー、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(チャイコフスキーは違う)
・『ウォーキング・シューズ』 / ジェリー・マリガン
・ヴィオラ・ダモーレのための協奏曲 / ヴィヴァルディ
・『水曜日の子供は苦しいことだらけ』 / マザーグースの歌
・作家・書籍
・『夜明け前』 / 島崎藤村
・カント、カフカ、イスラム教典、ジョブズ、ドイル、ホーキング、シャルルドゴール、クリスティー
ドミトリ・ショスタコビッチの書簡集
・ヴィトゲンシュタイン
・アイスランドサガ、泉鏡花全集、家庭の医学百科
・アーネスト・ヘミングウェイ
・『アンネの日記』 / アンネ・フランク
・『パパラギ』 / エーリッヒ・ショイルマン (サモアの酋長)
・農業年鑑、ホメロス、谷崎、イワン・フレミング
・『感情教育』 / ギュスターヴ・フローベール(『風の歌を聴け』にも登場)
・ドストエフスキー、トマス・ピンチョン、トーマス・マン、坂口安吾、森鴎外、谷崎潤一郎、大江健三郎(貸出は、おおかたエンタメ、たまに)
・『コレラの時代の愛』 / ガルシア=マルケス
⇒物語は、フロレンティーノとフェルミーナの恋愛、フェルミーナが別の人と結婚し、フロレンティーノが彼女を待ち続けること、そしてフェルミ―ナの夫であるフベナル・ウルビーノ博士の死後、(60年ほどの時を経て?)フロレンティーノが再びフェルミーナに愛を告白するという物語。
マジックリアリズムについても少し触れました。前回のRENS読書会で紹介されたアフリカの小説家エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』にも死後の世界が描かれていて、マジックリアリズム的な要素がありました。
【読書会を経たあとの感想】
・めっちゃ再読したくなった。
人それぞれ読み方も感じ方も違って、この読書会で発見があったところをもう一度読み直したくなったようです。自分たちが普段感じないような深い共感を得たり、新しい視点を見つけたりして、非常に満足した様子でした。
・色んな脳みそを使った。
小説に登場する不思議な世界観や、登場人物たちの心理描写に思いを馳せながら、物語の深層に迫っていきました。参加者たちがそれぞれ自分なりの解釈を披露し、意見交換できた。
読書会が参加者に与えた影響や、読書を通じて得られた気づきについても共有し、互いに刺激になりました。
・喪失体験を得る 夏目漱石の『こころ』
村上春樹さんのテーマのひとつとして『喪失の物語』が挙げられました。これまでに何冊も著者の作品を読んでいたにもかかわらず今回初めて感じたのが、日本を代表する名作『こころ』との共通点でした。
Kが亡くなったあと、かなりの時間が経ってから自ら命を断った”先生”。何かを喪失したのではないか? まさに『喪失体験』を得たのではないか? という推察にも至りました。
・熱量を感じた。
読書会は参加者全員がその課題本を読了済なので同じスタートラインです。同じ読書体験をしたことで語りにも熱量の高まりを感じました。
【まとめ】
久しぶりの課題本読書会、1冊の本で2時間も話をすることができるのかと心配していましたが、全くの杞憂に終わりました。
課題本の良さとして、ネタバレを気にしなくていいのが最大の利点だと思っていました。が、とんでもありません。一番は同じ作品を読んだ共通の何かを持っていて、それがまた違う角度で混じり合ってさらに作品に対する気持ちが強くなることでした。
他にも細かい感想や疑問点、共感したことが多すぎてここには書ききれないぐらいでした。
これからも課題本読書会を継続して開催できればと思います。